Matumoto Takuma (age37)
1984年10月長崎県生まれ。家具塗装の家に生まれ育った。父親は職人で社長。小学校の頃から、ペーパーなどで製品作りを手伝って、仕上げた家具は図書館や美術館、有名喫茶店チェーンなどに納入されている。腕一本で東京へ上京。SNSを職人間の交流に活用して東京でも活躍。職人歴19年。目指すは長崎一の塗装職人。
INTERVIEW
1984年10月長崎県生まれ。家具塗装の家に生まれ育った。父親は職人で社長。小学校の頃から、ペーパーなどで製品作りを手伝って、仕上げた家具は図書館や美術館、有名喫茶店チェーンなどに納入されている。腕一本で東京へ上京。SNSを職人間の交流に活用して東京でも活躍。職人歴19年。目指すは長崎一の塗装職人。
Chapter 1
実家は家具を塗装する工場です。父親が社長で職人でもありました。外壁塗装の現場もやりますが、メインは工場です。僕は少年時代から、工場に出入りして育ちました。
塗装するのは、学校の図書館、長崎の美術館の木製品の家具です。家具を作る工作所から僕らの工場へ製品を持ってきてもらって、塗装してまた送り返す。
材料は強溶剤系のラッカークリアやウレタン系など。色を付ける場合は、まず染色塗料を刷毛で塗って、そのあとにクリアを吹き付けて仕上げます。吹き付けをすると木(もく)がケバ立つの
で、家具塗装にはそれをペーパーでなめらかにするという作業があって、5年生くらいには、その単純作業を手伝っていた記憶があります。
中学校になると夏休みや冬休みは現場に出て、現場となった大手カフェチェーンで脚立の上に座って、親父の作業風景を眺めたり…。いつの間にか仕事の流れを覚えていました。文化遺産の現場などもやっています。作品として残っているようなものもあって、僕は父の仕事が自慢でした。高校へ出て父親と働き始めたのは、だから自然な流れです。
Chapter 2
喧嘩さえしなければ、僕はそのまま父と一緒に仕事を続けたと思います。25歳のときに東京へ出ました。
東京には縁もゆかりもありません。長崎で7年間やってきた塗装の技術だけをもって、「どうせだったら日本の真ん中でやってやろう!」と東京へ行きました。最初の頃は大変で、友人もいないし、話し相手も頼る相手もいない。あるには腕だけ。もう本当に孤独死するかと思いました。
東京では、職人同士が情報交換をするSNSを活用して、仕事を広げていきました。「忙しいので手伝いに来てください!」とか「仕事をください」といったやり取りをする、職人向けのSNSがあるんですね。
とはいってもまったくの初対面なので、最初は日払いです。そこから信用を積み重ねて、職人仲間もできて、大手さんの受注もできるようになり、ようやく生活が安定してきました。
長崎と東京の現場のちがいで戸惑ったこともあります。たとえばこっちで「スケラ」と呼ぶ道具を、関東では「カワスキ」と呼ぶんですね。現場でとっさの話が通じなくて、お互いになんだそれ?なんだそれ?と。作業工程の名称でも、長崎での「ダメコミ」が、関東での「ミキリ」だったり。吹き付け屋とローラー屋が分かれていたりするのも、関東特有ですね。こっちでは同一の職人がどっちもやります。
おもしろいのは養生で、これだけは関東も長崎も関係なく、職人それぞれなんですよね。皆が自分のやり方を持っています。
Chapter 3
長崎でまた暮らし始めたのは35歳、2年前です。そもそも帰る気はなかったんですが、実の母親が癌になったと知り、「今のように年に一度帰省するだけでは、あと数回しか会えないんだぞ」と、決断しました。
10年間で築き上げた東京の仕事関係も、人間関係も、仲間もすべて手放して、また長崎でゼロから始めるわけですから、大きな決断です。
10年ぶりの長崎の塗装現場は…現場は現場ですから、そう大きく変わるわけではないのですが。社長の成長ぶりに驚いてしまいました。社長はもともとは、現場で一緒に働く仲間だったのですが、ばったり偶然東京で会って、「いま会社が調子良いから」と
声をかけてもらっていたんですね。自分が長崎へ帰ることを考えているタイミングと、社長と偶然会った偶然と縁というか。人生ですね。
長崎に帰って来てから結婚して、子供が二人います。小6と0歳です。家内は長崎の人で、東京にいる間は遠距離でつき合っていました。
今から考えると、ネットで仕事や仲間が増えていったのかなあと思います。ネットを使って知り合う職人はけっこう多いです。地域が絞れるので、同じエリアで働いている職人同士が出会えるんですよね。長崎一の職人になるつもりでやっています。
掲載日:2022年1月14日
塗装の腕だけを頼りに長崎から東京へ。SNSを活用して仕事や生活の幅を広げてきました。