YAMAKOSHI TOSHIJI (age75)
山越塗装創業者 1943年12月18日、埼玉県秩父市生まれ。中学卒業の1958年4月、世田谷区深沢の塗装店に就職。1965年に退社して、熱海の森塗装へ転職。1970年に同社を退社、同年夏3月に山越塗装を創業。その後、1990年4月に有限会社山越塗装を設立
INTERVIEW
山越塗装創業者 1943年12月18日、埼玉県秩父市生まれ。中学卒業の1958年4月、世田谷区深沢の塗装店に就職。1965年に退社して、熱海の森塗装へ転職。1970年に同社を退社、同年夏3月に山越塗装を創業。その後、1990年4月に有限会社山越塗装を設立
Chapter 1
秩父で生まれ育ったんだけれど、叔父さんが東京でペンキ屋をやっていたので、中学時代から夏休みにはアルバイトで働いていたんだ。なので、中学卒業後、自然の流れで叔父に知り合いを紹介されて、東京のペンキ屋に就職した。ただ、就職といっても、自分らの頃は5年間くらいは丁稚奉公というか、小僧扱いだったから、当時は給料なんてのはなくて、盆暮れの休みの前に小遣い銭をくれる程度だった。
賄い付きの住み込みだったけれど、給仕は俺ら小僧がやらなければならなかったし、先輩の分の洗濯もやらされていた。相撲部屋みたいなもんだったね。ただ、当時は東京でもペンキ屋は少なくて、工務店はみんな頼んでくるから、ものすごく忙しかった。当時、店は儲かっていたんだろうけれど、俺らには関係なかったんだけどね。
世田谷のペンキ屋は5年間働いて、1年間、お礼奉公。それから、熱海市桃山町のペンキ屋の職人として雇われて、働いていたんだ。当時、きちんと丁稚奉公、お礼奉公をすれば、この世界で認められて、どこでも働けたんだ。”
Chapter 2
Chapter 3
Chapter 4
3年前、県の塗装工事業許可の書き換えがあったから、いい機会だと思って、長男の達也に会社を譲ったんだ。会長とかそういう面倒なことはなくて、一介の職人として、毎日、いまも現場に出ているよ。毎日、働いて、酒を飲むことが習い性になっているから、やめられない。仕事ができなくなったり、酒が飲めなくなったら、生きてる甲斐がないからね。職人は定年がないから、本当によかったと思っている。
去年から孫の弘尭もいっしょに働くようになったんだけれど、言いやすいから、しょっちゅう、あれこれ言っている。全然、素直に聞いちゃいないし、うるせえジジイだと思ってるかもしれないけれど、仕事ぶりを見ていると言いたくなっちゃう。俺の目の黒いうちに、何とかペンキ職人として一人前になってほしいんだけれどね。
掲載日:2018/06/29
ペンキ屋稼業60年。いまも働けるのは幸せだと思う